努力しても認めてもらえず、卑屈になる社会

我々は、幾ら努力しても、他者から認められないことがあります。

人より長い時間や労力を使った場合でも、例え仕事に結果を出した時でさえ認められないことがあります。

出来て当然、とか、やって当たり前などという言葉で片付けられてしまうことも あるくらいです。

かと思えば、別な人がもてはやされている姿を見かけることもあります。

やるせない気持ちを持ちながら日々、努力している人は、この社会の中に たくさんいるのではないでしょうか。

努力しても認められず報われない社会

努力しても認められないよく考えてみれば、社会全体の傾向として、必ずしも良いものが売れるとは限りません。

例えば、野菜ひとつとってもそうです。

本当に美味しくて、良い野菜は、ぶかっこうな形をするのではないでしょうか。

しかし、スーパーに陳列される野菜は、どれも形の整ったものばかりです。

売れ残っている野菜は、その中でも形や見栄えの悪いもののように感じられます。

形が良い方が、おいしそうには見える時もありますが、ですが、それは野菜の 本質でしょうか。

最近は、一個だけの果物が、仰々しく、ラッピングされ、一つの商品として売り出されて いる姿もあります。なぜか、我々はそれが良いものに見えてしまうのです。

ラッピングされているだけでも、感じ方は違うようです。

その他、野菜に限らず、音楽や絵なども、そういう傾向が十分にあると思います。

広報の上手い人、財力のある人は、有利に売り出せるのではないでしょうか。

最高傑作が売れなかった時、卑屈になってしまうのも、わからないでもありません。

絵の世界では、100年後くらいに、脚光を浴びることがあるようです。

しかしながら、長い年月がかかるもので、本人自身はそれを確認することが できないのです。

こうして考えてみると、世間とはかなりミーハーな性質を持っていると思います。

目の前のことに目を奪われやすく、分かり易く、目に見えやすいものが選択 されやすいのではないでしょうか。

だからこそ良い物を作ることに意味がある

世間の基準に合わせると、良い物を作ることは困難になると思います。

スタンダードは作りやすくなりますが、果たしてスタンダードは良いものでしょうか。

先進という言葉も怪しいもので、先進には様々なものが伴います。

例えば、先進技術の裏には、森の開拓とか、エネルギーの消費もついてまわるのでは
ないでしょうか。そればかりではないのは当然ですが、そういうことが含まれている
可能性は十分にあり、手放しで先進が良いとは言い切れません。

とにかく、良い物を作り続ける人がいたら、それは、多くの人には注目されない
にしても、その存在意義は大きいと思います。

本物がない社会の中で、一時、一回だけでも本物に出会う機会を作っていることに
なります。

もしスタンダードに合わないという経験をしている人にとっても救いにならないでしょうか。

スタンダードに合わない自分がおかしいのだ・・・と感じている人も少なからずいる はずなのです。

それは、本質をわかっている人とも言えます。

認められない時は、このような考え方も一つではないでしょうか。

世の常のように、良い仕事をしている人が認められることは、案外少ない社会なの
ではないでしょうか。本人の責任とは無関係という事になります。

別サイト→「流行やトレンドからも一歩離れていること」でも近い事に触れています。